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1972年がどんな年だったか、少しだけ振り返ってみると、まず主なイベントとしては、札幌オリンピックおよびミュンヘンオリンピックが開催されています(この当時は夏期&冬季オリンピックが同年開催されていました)。 札幌オリンピックでは「日の丸飛行隊」が70m級ジャンプ(現在のノーマルヒル)で金・銀・銅メダルを独占して国内のオリンピック熱をヒートアップさせ、ジャネット・リンの愛らしさが観客・視聴者を魅了しました。 オリンピック期間中は、トワ・エ・モアの「虹と雪のバラード」が街中に流れてましたっけ。まさに日本中「お祭り騒ぎ」だったような・・・。 札幌オリンピックに前後して、グアム島では元日本兵の横井庄一さんが、フィリピンでは小野田寛郎元少尉が発見されました。5月には沖縄が日本に返還されて沖縄県となり、9月には日中国交正常化の共同宣言が行われています。さまざまな側面で日本が「戦後」から脱却した年ではなかったでしょうか? 政治・経済に目を向けると、田中角栄氏が「日本列島改造論」をぶちあげて総理大臣になり、瞬く間に国土開発熱が広がりました。東京オリンピックあたりから顕著になった高度経済成長が一段落し、そのおこぼれが庶民の給与所得にも及んで、一般国民が経済的な豊かさを実感しはじめた時代でもありました。 Wikipedia によれば、この年の9月に「日本で初めてのファッションショーが銀座の三越呉服店で行われた」そうです。そういえば、松江市内のメイン通りで女性下着の大広告を見て「こんな広告を堂々と街中に張り出す時代になったんだ」と思ったのもこの頃だったか。 経済的発展に恵まれたのは日本だけではなく、西側諸国の多くが第2次世界大戦のトラウマから回復し、例えば東西ドイツはお互いの政治体制を承認しあい、西ドイツはオリンピック開催国となることができました。米国ではスペースシャトル計画が開始され、これで一気に宇宙時代が訪れるといった観測も流れました。 しかし、その一方で、世界の大部分を占める開発途上国は貧しいままであり、一部の富める国々との格差は広がるばかりでした。 また、共産主義体制も盤石に見え、冷戦は終わることなく、ベトナムでは、その代理戦争とも言える熱い戦争が続いていました。同年12月には、米国による北ベトナム空爆が再開されています。 米国およびその同盟国への憎悪が、貧しい国々のみならず西側諸国の「活動家」にまで広がり、国内では連合赤軍による「あさま山荘事件」でクライマックスを迎えます。この年、連合赤軍はイスラエルのテルアビブ空港でも乱射事件を起こし、ミュンヘンのオリンピック選手村では、パレスチナゲリラによるイスラエル人選手ら殺害テロが発生しました。1972年は国際テロリズム元年だったとも思われます。 ************************************** こういった時代背景が、今月号の作品のいくつかにも現れているような気がします。例えばポール・アンダースンの「光」。作品そのものは、最初の月着陸によって発見された「意外な事実」で読者を驚かせる趣向のショート・ショートですが、作品中に冷戦を背景にした記述が散在しています。例えば「現状の微妙な均衡をゆるがすような事態が発生すると、米ソ間で水爆ミサイル戦がはじまってしまう」とか「だから自分たちは(実用的に)重要な発見をすべきでない」等々。正直なところ作品自体のオチはさほど面白くなかったのですが、いかにも冷戦時代を背景にした作品という感想を抱きました。 一方「やわらかな窮地」では「憎悪という感情」そのものがテーマになっています。 作品の時代(近未来)には、世界は欧米を中心とする「文明国」と、「南」の開発途上国に二分され、2陣営間には壁が構築されています。「文明国」では進歩至上主義が唱えられ、子供は10才で両親から引き離され「立派な文明人」になるべく教育されます。一方「南」では人々が昔ながらの、しかしながら貧しい生活をおくっています。 主人公は非文明的な南諸国の住民達を「文明の足を引っ張るだけの怠惰な輩」だと断じて憎み、自分が「与えてやっている恵まれた生活」への感謝の念を示そうとしない妻を憎み、「3才にもなっておねしょする成長の遅い」娘を憎み、そうした憎しみに満ちている自分自身を最も憎悪します。 冒頭の木星生命体についての記述がどういう意味を持っているのか理解できないことと、結末が少し安易ではないかという感じはしますが、わりといけるお話ではないでしょうか。 ************************************** 「幻覚の地平線」は、先月の雑文で紹介したように、田中光二氏のSFマガジンというか商業誌デビュー作。近未来(1995年)のアメリカ合衆国が舞台。1980年代にヒッピー活動が最高潮に達し、ヒッピー達は世界各地で独立社会を営むようになったという設定です。先月号に掲載された前編で、主人公は米国政府のスパイとして北アメリカのヒッピー独立社会に送り込まれます。今月号の後編では、主人公はなにやら不穏な行動を取っているグループと接触します。 彼らは、代々のドラッグ使用によって超能力を身につけており、自らを「新人類」と勝して「旧人類」を蔑み、自分たちだけの世界に跳躍しようとする試みを続けていました。一方、彼らの存在と目的を知ったアメリカ政府は、「新人類」の抹殺を図ろうとします。 別の世界に行きたいと言っているのだから、勝手に行かせればいいと思うのですが、なぜ米政府はわざわざ手間をかけて抹殺しようとするのか、私には分かりません。「独立社会」の存在を(必要悪としても)認めながら、そこの住民がどこか別世界に行こうとすると嫌がる理由が分からないのです。それが「憎悪」というものなのでしょうか?それとも、作者だけは知っている特別な理由があるのでしょうか? もっとも、この小説には他にもさまざまな疑問があります。そもそも先月号についての駄文にも書いたように、ヒッピー運動をここまで美化するという感覚が(今では)分かりません。それに比べれば抹殺理由など些細な疑問に過ぎません。むしろ、この小説は「テーマ」なんてものには拘泥せず、思想的な香りのする冒険小説として楽しめば良いのではないかと思います。 ************************************** 一方「アクナル・バサックの宝」は、かすかな官能と暴力で香り付けされた冒険小説あるいはドタバタコメディーです。宇宙船運行のための必須鉱物「ギメライト」を産出する唯一の惑星である「ギメル」が舞台。ギメルはまた悪人だけが居住する惑星としても有名です。伝説によれば、この惑星がギメライトの宝庫であることを発見したアクナル・バサックは、この惑星のどこかに宝物を隠したとのこと。謎の美人オレンの来訪と共に、アクナル・バサックの宝をめぐる争いがはじまります。 作品そのものも面白いのですが(個人的には今月号の作品中1位をつけます)作者の正体が気になるところ。というのも、「作者はSFマガジン誌上で多数の作品を発表済みだが、本来の自分の作風と異なる作品であるため水戸宗衛というペンネームで掲載することになった」旨の説明書きがあり、「作者の希望により実際には誰であるかは明かさない」と書かれております。 さて、誰の作品でしょうか? 実は、おそらく没後かと思いますが、作者の正体は明かされており、WEBで調べれば誰の作品なのかを知ることが可能です。気になる方は、是非、自分でお調べ下さい。ま、回答は2月号のレビューで掲載しましょうか。(^_^) ちなみに「水戸宗衛」は「みっともねえ」の洒落とのことです。 ************************************** 「大利根架二郎の奇妙な身ノ上話」は言ってみれば輪廻物です。背景の時代が大正末期辺りと古い上、基本的に話が文語風で書かれており、さらに一部は古語風記述のため、読み通すこと自体にかなりの苦痛が伴います。でも悪くない作品だと思いますよ。 ************************************** 最後になりましたが、今月号で最も特筆すべき事項は「日本SFこてん古典」の連載がはじまったということでしょう。 高校・大学生の頃には全ての掲載作品を読んでいたはずなので、読み返してみれば「あっ、そういえば、これ読んだことがある」程度の記憶は甦りそうなものですが、今月号の作品については「幻覚の地平線」「アクナル・バサックの宝」以外には、全く記憶が消滅しておりました。「幻覚の地平線」「アクナル・バサックの宝」についても、ストーリーなど思い出せず、ところどころの場面を覚えていたという程度です。 ところが「日本SFこてん古典」の少なくとも今月号掲載分は、題名を見たとたんに内容を思い出しました。炭素(!)の出世物語です。横田氏も書かれているように、この紹介作品が「子供に化学を教える」という本来の目的を果たすことができたのかは、はなはだ疑問ではあります。しかしながら、これも横田氏の仰る通りで、こんなもの(失礼!)を使って化学を教えようという、その懐の深さというか余裕には脱帽です。 1973年。あの頃は、家族で食事に出かけるなんて些細なことが「豊かさ」の象徴で、そこに幸せを感じることができました。あれから30年以上が経過しましたが、経済的に豊かになるにつれ、さらに豊かになろうとあがき、とうとう経済的な豊かさが幸せになるための手段ではなく目的と化してしまったような気がします。そうしてさらに豊かになるために、「ムダ」を徹底的に排除した「効率向上」を追求する。それは見方を変えれば、余裕をなくし常にぎりぎりの状態で生きて行くという選択であるように思えます。そうまでして効率を追求する先には何が待っているのか?私たちは環境に最適化して巨大化した恐竜のような末路をたどるのでしょうか? ま、オレにはどうでもいいけどね。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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